歯医者で目覚めた新しい私

歯医者のことを好きだという人はあまりいないのではないでしょうか。あの独特なにおいや機械音を想像しただけでも鳥肌が立つという方は多いかと思います。

私は奥歯のさらに奥に生える「おやしらず」が4本とも生えそろったことがあり、しかしそれはどれもまっすぐ生えていないため、すべて抜歯をしなければいけない状態でした。ただ不思議なことに4本同時に痛むことはなく、昨日は右下、今日は左上といったように、私を気遣うように日替わりで攻めてくれる、気のきいたおやしらずでした。

そうはいっても痛いものは痛いので、私は意を決してこのおやしらず達を全て駆逐することにしました。そうと決めたら早速予約を取って、その日は定時で上がって歯科医院に行くことにしました。

すぐに会社の近くの歯医者へ到着しましたが、やはり大人になってもあの場所へ行くのは緊張します。歯を削るウィーンという音は人間の深層心理をえぐりますね。私はおしっこをちびりそうになりながらプルプルと待合室で待機していました。

そしてついに「キムラさんどうぞー」の声が聞こえてきました。緊張のあまり「ハィン!」という少し上ずった声で返事をした私を、歯科助手さんは優しく迎え入れてくれました。少し勇気が出ました。

口をゆすいでしばらく待ってると、筋肉モリモリのいかつい歯科医師さんがやってきました。腕なんかはもうパンパンで、ピタっとした白衣ははち切れんばかりです。私は思いました。「ああ、力任せに歯をもぎ取られるんだ」と。そして「もう、ひと思いにやってくれ」と。

私が口を大きく開くと、針の太い注射でブスッと麻酔を打たれて、次第に口の中の感覚がなくなっていきました。コブシを強く握りしめながらプルプル震える私を、歯科助手さんは「痛くないですからね♡」と優しく励ましてくれました。この時点で「これは新手のプレイかな?」と私は再び勇気を取り戻すことが出来ました。

そしておやしらずの抜歯手術が始まると、ムキムキの歯科医師さんはペンチような無骨な道具で私のおやしらずをガッチリと挟みました。その鍛えられた逞しい腕に血管がはっきりと浮かんでいるのを見て「ああ、これはアゴごと持っていかれるな」と冷静に考えていました。

私がそんなことを考えていると、先生がゴリゴリと私のおやしらずを攻め始めました。ゴリゴリというか、ゴキゴキという音が脳内に聞こえてきます。麻酔をしているとはいえ、鈍い痛みは伝わってきます。ゴリゴリ、ゴキゴキ、ゴキゴキ…痛ッ…痛たたッ…痛たたたッ…?

(あれ、これはなかなか悪くないぞ…?)

私は自分の思考を疑いました。私は正常な人間なので、痛いことはもちろん嫌いです。しかし湧き上がるこの感情は何でしょう。込み上げるこの想いは何でしょう。私は確かに思ったのです。これはなかなかいいもんだぞと。

そしてマッスル先生が力任せにゴリっと抜いてくれたおやしらずのあとには、ぽっかりと穴があいてしまいました。私は半ば放心状態でこの快楽の余韻に浸っていました。そしてしばらくして、ああ、楽しい時間は終わってしまったんだなと悲しくなりした。

しかし先生の「今日抜いたところが落ち着いたらまた来てくださいね」という言葉に私は救われました。なんとも嬉しい言葉じゃないですか。私は再び勇気を取り戻したのです。まだやれる…俺はまだやれるぞと。

こうして新たな何かに目覚めた私はおやしらずを抜くことに喜びを覚え、歯医者へ行く日は少し小躍りして会社を出るようになりました。(まるで恋に浮かれる女学生のようです)

それ以来、歯科助手さんの「痛くないですからね♡」という言葉にも「ははは、痛くしてくれても大丈夫ですよ!」と、非常にゆとりある気持ちで臨むことが出来るようになりました。

しかし、そんな幸せな時間にも終わりはやってきます。4本目のおやしらずを抜いたあとの「はい、これで終わりですね」という先生の言葉は、禁じられた遊びの終わりを告げるものでした。私はその夜「ああ、もう抜くものがないんだ」と、ひとり枕を濡らしました。

それからもう何年経ったでしょうか。今となっては、あの禁じられた遊びは幻だったようにも思えます。おやしらずを抜いたあとにぽっかりあいた穴は、今ではもう完全に塞がっています。

ただ、私の心にぽっかりとあいた穴は、生涯塞がることはないでしょう。